「縦横無尽の知的冒険」を読んで衝撃を受けた人のブログ

40代 家事、育児、教育、投資を中心に生活しています。充実した生活をおくるための考え方や料理、おすすめ映画、おすすめ本など。

カテゴリ: 思想

・兄弟で違う保育園への送り迎え
私の子供は現在、私立幼稚園に通っています。保育園などの入園申込みも始まる時期です。私も過去を振り返ってみました。
 
一人目 生後0才から認可保育園(民営)で小学校入学まで 

二人目 1年間の育休取得後、一人目と同じ認可保育園(民営)で小学校入学まで

三人目 1年間の育休取得後、二人目と同じ認可保育園を希望するも、
     定員オーバーで入所できず、民間施設に入所、
     その後、二人目と違う認可保育園(公立)の入園許可が下りました。
     一人目の学童保育、兄弟で違う認可保育園の送り迎えは本当に大変でした

四人目 1年間の育休取得後、三人目と同じ認可保育園(公立)に入所、
     三人目が小学校入学したのを機に私は正社員生活をやめました。
     私は家事専業となったため、認可保育園(公立)を退園し民間幼稚園に入園 

・公立保育所に不満が溜まる日々
乳児預かり・・・一般住宅を改装したところで、実際に中に入ることはあまりありませんでした。子供の受け渡しは玄関のみでしたので、日中、子供がどういった生活をしているかは実際のところ把握できません。

民営認可保育園・・・職員の雰囲気や挨拶、様々な行事、安全性に配慮した給食など感心させられることが多くありました。人気がある保育園なのも分かります。

公立保育所・・・現場職員の雰囲気は良かったのですが、園長は明らかに子供に興味なさそうな市の職員という感じでした。園庭が職員や保護者の駐車場となっており、安全面でも不安でしたし、それを改善しようともしない態度に不満が溜まる日々でした。

民間幼稚園・・・教育という観点でみると、保育園とは全く違っていました。いろいろな歌が子供の口から自然に出てくるのを見ると幼稚園で良かったなと思います。
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・認可保育園でなければという呪縛
一人目、二人目の時は保育園は認可保育園が費用面でも信頼性の面でも安心できるという思い込みがありました。三人目の時、希望していた保育園の入園に入所出来なくて苦労しました。しかしながら、それがきっかけで保育園の制度や幼稚園との違いなどを学び、本質的な問題点などを理解するようになりました。その中でも、この言葉は私の保育園に対する見方を根本から変えました。

待機児童問題の根本原因は、保育園の認可制度だというのが私の持論です。認可制度があると、認可を受けて補助金を受け取るために、保護者のニーズから懸け離れた施設が作られます。通常のマーケットでは、不必要に高額な商品は売れないものですが、税金が投入されると財政錯覚が生じ、安くて高級感のあるサービスが提供されているということで、入園希望者が殺到し、待機児童問題が発生するというわけです。 
  永井俊哉ドットコム「女性の労働力を活用するにはどうすればよいのか」

この論文を読む以前は、待機児童問題は税金などを多く投入することが、解決策につながるものだと信じていました。ましてや税金の投入が市場をゆがめるという発想など全くありませんでした。

・「希望する保育園に入れなかった」という幸運
希望の認可保育園に入れないことは当時の私たちには大打撃でしたから、上記のような発想は参考程度にしか考える余裕はありませんでした。しかし、そのことがきっかけで、一般住宅を改造した施設での乳児預かりや公立保育園、民間幼稚園を経験することとなりました。それぞれの良い点、悪い点はありますが、希望の民営認可保育園に4人とも入園していたら、今現在のような生活を送ることはなかったでしょう。そういった意味で「希望する保育園に入れなかった」ことは幸運なことだと思っています。下記の書籍は、自分が正しいと思っていること、不満に思うことの根本を揺さぶり、思考の幅を広げてくれるものです。一読をお薦めします。

この記事は過去の「待機児童問題に対しての考えを根底から変えた言葉」を加筆、修正したものです。


市場原理は至上原理か
永井俊哉
Nagai, Toshiya
2016-03-05






・ゴミの分別は資源の有効活用
今では当たり前のようにプラスチックごみ、燃えるゴミ、不燃物などをそれぞれ半透明のポリ袋に入れて決まった日に出しています。ゴミ袋が黒だったことも忘れている人も多いのではないでしょうか。
地球環境を考えればなるべくゴミを出さない、そして資源の有効活用という意味でゴミの分別は大切なことだと思っていました。この論文を読むまでは・・・

従来、プラスチックなどの塩化有機物を焼却炉に入れると焼却炉が傷むという理由が、プラスチック類のごみを、焼却炉に送る「燃えるごみ」に混ぜずに「燃えないごみ」として分別したり、あるいはマテリアル・リサイクルのために分別回収したりすることを正当化してきた。しかし、現代の廃棄物発電は、この問題を既に解決しており、マテリアル・リサイクルでは採算がとれないようなプラスチック類は「燃えるごみ」に混ぜて捨てる方が望ましい。
永井俊哉ドットコム「リサイクルはどうあるべきか」

・市役所職員の意外な言葉
私の友人の中に市役所職員がいます。その人はゴミの焼却場に配属になったことがあり、焼却場の内情に詳しい人です。ゴミんの分別が面倒だという話になった時、彼が言ったことが忘れられません。

「燃えるゴミは生ごみばかりなのでなかなか燃えない。適度にプラスチックが入っていた方が良く燃える。燃えない時は大量の油を使うので、本当にゴミの分別が環境に良いか分からなくなった」

というような話でした。その場では、そんなものかと受け流しましたが、なんともやりきれない気持ちになりました。環境問題を考えてトレイを洗ったり、ペットボトルのラベルを剝がしたりといった行為も本当に意味があるのだろうかと思うようになりました。

 
市場原理のもと営利を追求する企業にとって、人的資源は、天然資源とともに節約に努めなければいけないコストである。また他社との競争に勝つために、顧客の満足度を高めなければならない。そこで、企業は、人件費を最小にし、顧客の利便性を最大にするように進化を遂げてきた。ところが、政府主導のリサイクル産業は、これとは逆の方向に進んでいる。政府にとって、人件費は、雇用の拡大という大義名分のもと増やすことが正当化できるコストであるし、住民の労働は、法律で強制することでタダでいくらでも使える資源である。その結果、政府は人海戦術的なリサイクル産業を肥大化させ、住民には不便な方法を強要するようになったのである。
永井俊哉ドットコム「リサイクルはどうあるべきか」
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・節約生活とゴミの分別
節約生活を考える場合、収入に対して支出の割合を減らすといったことが基本となります。当然、ゴミを減らすことも無駄を省くという意味で重要なことです。だからといって、ゴミを分別するという手間つまり人的資源を浪費することは結果的にコストがかかっているという事実も認識すべきであります。

・ゴミの分別は資源の浪費
そもそもゴミの分別自体が地球環境の改善に有効であるとは思えません。そうであるならば分別している時間が無駄そのものです。私が住む自治体のプラスチックごみは汚れがひどい場合は燃えるゴミとして出して良いそうです。水洗いで汚れが落ちるものは水で流してから出すそうです。いずれにしても罰則規定はないので、まじめに分別している意味は「おそらく地球環境に良いことをやっているつもり」になれることくらいです。しかしながら、分別は面倒で貴重な時間を費やすという人的資源の浪費であるということは事実です。

多くの自治体がプラスチックごみは全て燃えるゴミとして出せる方向になっているとはいえない現状です。少なくとも個人としては行政の押し付けるただ働き(ボランティア)には注意したいと思っています。
この記事は過去の「ゴミの分別は資源の浪費である理由」を加筆、修正したものです。

市場原理は至上原理か
永井俊哉
Nagai, Toshiya
2016-03-05













・生きているだけで素晴らしいのか
今回、子供がケガをして一時的ではありますが歩けなくなってしまいました。
「骨に異常はないから大丈夫」と自分に言い聞かせたのは、最悪の場合と比較することが心の平静を保つことであったからかもしれません。
テレビの有名タレントや、ブログ記事でたまに目にするものの、なにか引っかかる言葉があります。
「生きているだけで価値があり、それだけで素晴らしい」
「存在そのものに意味があり、その奇跡を毎日意識しながら感謝して生きる」
「生きているだけで丸儲けの発想で、謙虚な気持ちで生活することが幸せの近道」
などがそうです。一見その通りだなと思う反面、現実の世界ではそんな単純なものではないというような気持ちにもなります。今回、子供がケガをして歩けなくなってしまいました。
「骨に異常はないから大丈夫」と自分に言い聞かせたのは、最悪の場合と比較することが心の平静を保つことであったからかもしれません。
そういった前向きな言葉を素直に受け入れられないのは、何も齢を取って偏屈になったからではありません。合理的な理由があるように思います。

ある商品の価値の総額は、何人の買い手が、その商品と引き換えにどれだけの犠牲を払おうとするかで決まる。空気や日光のように有用だが希少性がない財は、その獲得と引き換えに何も犠牲にする必要がないがゆえに、価格はゼロである。言語表現の理解においても、新たな知識を受け入れるということは、その知識と矛盾する過去の認識を犠牲にすることを伴う。既に知っている知識は、その獲得と引き換えに何も犠牲にする必要がないがゆえに、価値はゼロである。新しい知識は、それがより多くの人のより多くの過去の知識を否定すればするほど、より多くの価値を持つ。
永井俊哉ドットコム「貨幣と言語の類似性」

この論文では、お金と言葉の類似性ということで、価値を計測するものとしてのお金と言葉を挙げていますが、これは健康についても当てはまるのではないでしょうか。

・健康のありがたさを知る時とは
健康な人が病気をして初めて「健康の有難さ」や「何でもない日常こそ最高」などと語る話はよく耳にします。空気も日光も人間が生きる上で必要不可欠であることは言うまでもありませんが、それに感謝するということとは別です。そもそも「素晴らしい」という言葉自体、何かと比較して優れている、褒めたたえらるべきものという意味なのですから、健康でない過去の自分や現在健康でない他人などと比較して「優れている」からこそ素晴らしいと感じるはずです。
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・幸福感を感じる理由
「生きているだけで素晴らしい」という言葉の奥には、「生きているだけで素晴らしいと感じられる私は、そう感じない過去の自分や他人と比較して優れている」という感情があると解釈するのが自然なのではないでしょうか。「何か比較する対象がなければ、素晴らしいと感じることはできない」と理解することが幸福感を感じる近道なのではないでしょうか。

・何と比較して素晴らしいのか
この「生きているだけで素晴らしい」という言葉を拡大して「女性というだけて(生命を誕生させられるという意味で)素晴らしい」や「年長者、年上の人間は(人生の先輩という意味で)素晴らしい」というのもたまに耳にします。これは紹介する人に悪気はないのかもしれませんが、「生命を誕生させらる主体となりえない男性よりも女性のほうが優れている」、「経験の少ない若年者は経験の多い高齢者よりも劣っている」という根拠のない差別的思考であると思えます。自分の思考段階でのそういった考え方は他人に害を及ぼすものではないので、いくらでも比較、優劣を判断して脳内で自己満足していれば良いのでしょうが、そういった思考を道徳として「女性は男性よりも優しく扱われるべき存在」だと考えることや「年長者を敬う」ことを当たり前として疑わないことこそを疑うべきであると思っています。

この記事は過去の「生きているだけで素晴らしいという言葉に潜む感情」を加筆、修正したものです。

市場原理は至上原理か
永井俊哉
Nagai, Toshiya
2016-03-05





 

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