「縦横無尽の知的冒険」を読んで衝撃を受けた人のブログ

40代 家事、育児、教育、投資を中心に生活しています。充実した生活をおくるための考え方や料理、おすすめ映画、おすすめ本など。

カテゴリ: 社会

・公共の場での授乳問題
公共の場での授乳について意見が述べられたブログやニュースを目にすることが多くなりました。
経験を踏まえ、考えてみました。

 公共の場での授乳に対する意見

 賛成意見 
 ・赤ちゃんの空腹を満たすことが何よりも最優先されるのだから、恥ずかしいなどどとおもわず、
  堂々と授乳するべき
   ・乳児への授乳をわいせつだと感じること自体が恥ずべき感覚
 ・乳児にはいつでもどこども、明るい太陽の下で授乳される権利がある
 ・公共の場で泣く乳児を、静かにさせる最善の方法が授乳である
 ・授乳はわいせつな行為ではないのだから、露出狂と同じ扱いをされるべきではない
  
 反対意見
 ・授乳している様子を性的対象として捉える人もいるので、公序良俗に反する
 ・目のやり場に困るのでやめて欲しい
 ・見たくない人がいるのだから、公共の場では慎むべき

といったところでしょうか。日本では法律では何の規制もありませんが、世界では、法律で保護(公共の場での授乳する権利について)している国もあるそうです。

・授乳は「わいせつ」な行為か?
私の考えは、公共の場での授乳について、正直あまり深刻な問題として捉えていませんでした。そもそも電車に乗ることが少ない地方都市では、移動は自動車というプライベートルームがあるため、困ることは都心部ほどではない気がしました。しかしながら、仮に電車で乳児が大泣きして授乳が必要な状況になり、やむを得ず授乳している様子を、悪意のある第三者に撮影されて、知らないうちに世界中に配信させられていたなどと考えると、恐ろしくなります。
賛成意見の根底にある考えとしては、「授乳行為はわいせつではない」という前提があるように感じます。いたずらに性欲を興奮または刺激させ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものを「わいせつ」というそうです。わいせつの定義は別として、授乳行為を性的なものとして捉える人間がいることは事実です。

人間は性器を隠蔽し、セックスをタブーにした。性器を日常的に隠蔽し、その露出を規範によって禁止することで、その規範の非日常的侵犯がもたらすエロティシィズムの興奮を増大させる。
性器の隠蔽以外の方法でもセックスをタブーにすることができる。例えば、男女の肌の接触を禁止することにより、抱擁のエロティシィズムを高めることもできる。だが、セックスのタブー化で最も中心的な役割を果たしているのは、性器の隠蔽である。
セックスをタブーとすることは、セックスの否定ではなくて、むしろ肯定である。刑法第174条に明文化されている公然猥褻の禁止は、猥褻の否定ではなくて、肯定である。もっと正確に言えば、それは否定することによる肯定である。
   永井俊哉ドットコム「人はなぜ性器を隠すのか」 

上記の論文によると、隠すからこそ、その性的価値が高められるのだそうです。
女性の乳房は直接的な性器ではありませんが、性器を連想させるということで文明社会においては一般的に隠されるべきものとされています。そうであれば、授乳中であれ、それは男性の性的興奮を刺激する可能性は十分にあり得ます。
授乳中の女性にとって、第三者の性的興奮を満足させるメリットはありません。又、授乳行為を目にすること自体を不快だと感じる女性の心理は、理解できなくもありません。授乳中の母子共に幸せそうな雰囲気を見れば、それを願っても叶えられない人が見れば妬みの対象となるでしょう。
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・授乳を法規制することの意味
公共の場で授乳を妨害する行為を禁止する法律は現在の日本にはありません。仮にそういった機運が高まることがあったとしても、「女性と乳児の権利を保護するものだ」として肯定する意見が大多数を占めると思います。しかしながら、そういった法律で規制が必要なほど、授乳に対して嫌悪感を持つ人が少なからずいるというのは事実のようです。

公共の場での授乳行為を暖かい目で見守る、もしくは空気のように自然にやり過ごす。それが理想なのでしょうが、それが出来ない人も当然存在するのは想像できます。
公共の場での授乳を賛成する人には「堂々と恥ずかしくもなく」授乳出来る人もいれば、恥ずかしいけれども授乳室が近くにないので子供のためにやむを得ずそうするという人もいるのではないのでしょうか。

・育児しやすい環境とは何か
「授乳の妨害を法律で禁止する社会・・・」というと息苦しさを感じます。しかしながら、そういう意見が起こってきた背景にあるものを考えることも必要だと感じます。
公共の場での授乳スペースの確保を推進することとその結果としての公共の場での授乳をよく思わない人の増加は表裏一体になるものではないかと思います。授乳スペースの設置は母子のために良かれと設置しているのに、それが結果として授乳を日常空間から隔離することを助長する一因となったのではないかとも感じます。
育児しやすい物理的環境を整備したり法制化することが逆に育児しずらい心理的環境を形成する可能性につながる恐れもあることを意識すべきであると思います。

この記事は過去の「公共の場での授乳について考えたこと」を加筆、修正したものです。





・口より先に手が出るということ
私には中学生から幼稚園児までの子供がおります。一緒に生活していれば腹の立つこともあり、毎日ガミガミうるさいと思われているはずです。私自身、子供に対して怒りにまかせて叩くことは極力避けたいとは思っていますが、沸点が低いのか、口より先に手が出ることも多くあります。口で言って分からないことに対して暴力は効果的です。子供を服従させるために叩くことや子供が振り上げた拳を拘束するのは完全に否定されるべきものではないはずです。

非暴力を貫いた父親が下した恐るべき最後の決断
家庭内暴力に悩まされる親は現在、社会問題となっている子供に対する虐待ほどにはクローズアップされていませんが、当事者自身が公にしない限り分からない問題であり、それが傷害事件となって初めて公にされるというケースが多いように感じます。
以下の文章は永井俊哉ドットコム「エントロピーの理論(15)優しさだけで子供はそだつのか」を自分なりに考察したものです。子を持つ親にはぜひ読んで頂きたい論文です。

約20年前、14才の息子を父親が金属バットで殴り殺す事件がありました。事件以前に加害者の父親は子供に対して暴力を振るうことはなかったし、自分自身も親から暴力を受けたことがなかったという事実は私にとって衝撃的でした。
子供に勉強を強要することもなく仲良く遊ぶことも多かった父親が子供を殺すという事実は決して他人事ではなく、深層を理解することは意味のあることだと思います。
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・事件の概要

1996年11月 東大卒でまじめな父親が息子(14才)を金属バットで殴り殺した

最初に母親への暴力が始まった
息子の出生当時、両親とも共稼ぎで息子は生後三ヵ月から保育園にあずけられた
息子の暴力の遠因は母から遠ざけらられているという思いへの復讐だった
父親は息子の母に対する暴力を叱らなかった
当時、父親自身は仕事がうまくいかず、家庭内に目を向けていなかった
父に対しても暴力を振るうようなり、それがエスカレートしていった
父親は息子の気持ちを分かろうと専門機関に相談したが解決しなかった
息子は自暴自棄になり自殺未遂を図った
父も自殺願望が起きたが、それが息子への殺意と変わり、犯行が実行された

2013年4月 父親は懲役3年の実刑判決を受けた


・史上最強の権力とは
母親は実際には子供に対して愛情を持って接していたようです。しかしながら、幼い子供にはそれが理解できず、遠ざけられたと感じたという事実は重要な点であると思います。子供は大人ほどに理解力はありません。自分の子供は自分のことを理解してくれるという根拠のない自信は、結果として悲劇につながると感じました。
子供からの暴力に対して毅然とした対応をすることは親としての責務です。その方法はケースバイケースでしょうが、それは時として親からの暴力も必要な状況もあるのではないかと思います。しかしながら、それでも暴力は避けるべきです。 なぜなら暴力は相手を従わせる最適の方法ではないからです。
 暴力をこれ見よがしに振るう暴君は、一見すると権力がありそうだが、実はそうではなく、暴力を振るわないがゆえに権力が不可視となった民主主義的な統治こそ、史上最強の権力を持っている。
    永井俊哉ドットコム「エントロピーの理論(15)優しさだけで子供はそだつのか」

暴力を使わない形で見えない権力を持った親になるにはどうすればいいのか、このブログを通して考えていきたいと思っています。

この記事は過去の「愛情を持って保育園に預けていても、それが子供に遠ざけられていると理解されたなら」を加筆、修正したものです

永井 俊哉
プレスプラン
2003-07-15



 

・現代の日本にも貴族は存在する
「貴族」は中世のヨーロッパに出てくる特権階級のイメージですが、現代日本にも貴族に相当する人は存在しているようです。

現代日本における高級官僚たちは、かつての貴族に相当する。マスコミは、官庁や高級官僚が天下った特殊法人や公益法人の非効率性をしばしば批判するが、彼らは、民間企業の経営者のように、収益をあげることができないことに対して、何らの劣等感も持っていない。むしろ、彼らは、自分たちが、利潤の増減に一喜一憂する商人的な世俗性から超然としていられることに貴族的な優越感を持っているのだ   
               永井俊哉ドットコム「上品さとは何か」
私の友人にも公務員はいます。高級官僚ではありませんが、営業成績で一喜一憂しているわけではないようです。労働環境、給与水準、福利厚生などあらゆる面で日本の公務員とは「現代の貴族」であるといえそうです。

・上品であるとはどいうことか
貴族の特徴としては彼らが「上品である」ことが想像されます。上品であるとはどういうことかはこの文章に集約されています

上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定することであり、上品さにおいて文化が自然から区別される。上品さは、上流階級の人々が富を衒示的に浪費することで示されるステータスシンボルである。
                
                永井俊哉ドットコム「上品さとはなにか」 

欲望に対して効率的であれば、下品な行為となります。そして浪費こそ上品さを示すシンボルでもあります。それでは浪費を伴わないで上品さを演出することは不可能なのでしょうか。
節約生活している人の中には「他人からどう思われようと関係ない」と割り切れる方もいるようです。人それぞれの考え方なので、良いとも悪いともいえませんが、下品に思われるよりは上品に思われた方が、経験上、得であることは分かります。 
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・「効率を重視する貴族」という存在
売上や営業目標のことばかり考えて仕事をしているのは確かに上品さとはかけ離れています。上記の論文では高級官僚が貴族に相当するとしていますが、私には公的職業に携わる正規の職員は特権階級という意味で貴族的であると思います。公務員は利益を優先しているわけではないので、「上品な」仕事と思われやすいのではないでしょうか。欲望の直接性を否定することが、「上品さ」であるのあらば、公的な職業に就きながら節約生活をすることは貴族的でありながら効率性を追求するということになります。生活においては効率性を追求し、そのための手段として上品な職業に就業することは多くの日本人が理想とする生き方ではないでしょうか。

・なぜ裕福であることを隠すのか
現代の日本で公務員が貴族的に見えない理由は、明らかに裕福であることを見せびらかすような生活は結果として自己に不利益となることが分かっているからであり、これが「上品な節約生活」を志向するひとつの要因になります。
現代の日本社会には「公的職業に携わる貴族的な人とそれ以外の平民」という見えない格差社会が存在している気がします。そして、「節約生活」志向がさらにそれを見えにくくしているのではないかとも思います。

この記事は過去の「裕福だけど節約好きというアピールが目指すもの」を加筆、修正したものです。

市場原理は至上原理か
永井俊哉
Nagai, Toshiya
2016-03-05





                 
                 


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